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マフムード1世 (トゥグルク朝) : ミニ英和和英辞書
マフムード1世 (トゥグルク朝)[あさ, ちょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

マフムード1世 (トゥグルク朝) ( リダイレクト:ナーシルッディーン・マフムード・シャー (トゥグルク朝) ) : ウィキペディア日本語版
ナーシルッディーン・マフムード・シャー (トゥグルク朝)[あさ, ちょう]

ナーシルッディーン・マフムード・シャー(Nasir-ud-Din Mahmud Shah, 生年不詳 - 1413年)は、インド北部を支配したトゥグルク朝の第8代君主(在位:1394年 - 1413年)。父は第6代君主のナーシルッディーン・ムハンマド・シャー
==生涯==
1394年、父が死去し、その後を継いだ兄のアラー・ウッディーン・シカンダル・シャーもすぐに死去したために即位した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。
だが、これに反対する貴族らはマフムード・シャーの甥ナーシルッディーン・ヌスラト・シャーギヤースッディーン・トゥグルク2世の弟にあたる)を擁立し、宮廷は2ブンされた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。マフムード・シャーはデリーを、ヌスラト・シャーはフィールーザーバードを支配し、争いを繰り広げた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。
また、マフムード・シャーによってジャウンプル総督に任命されたマリク・サルワルが同年に独立を宣言し、ジャウンプル・スルターン朝を建国している。
このようなトゥグルク朝の情勢の乱れは、ティムール朝の王ティムールのもとにも伝わり、ティムールはインドから富を得るためとジハードを行うために、1398年7月インダス川を越えて北インドへと進軍した。
同年11月26日、トゥグルク朝の軍勢はティムールの軍勢にデリー郊外の平原で敗れた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。
ティムール軍の情報によると、ティムール軍100000に対してトゥグルク朝の軍は歩兵40000、騎兵12000、象軍120であり、ムハンマド・ビン・トゥグルクやフィールーズ・シャー・トゥグルクの時代の軍勢の10分の1程度であったことから、トゥグルク朝がどれほど衰退していたかがうかがえる。
さらに、12月17日、ティムール軍はデリー郊外でトゥグルク朝の軍を破り、翌18日にはデリーに入城し、王宮をはじめ略奪が行われ、デリーからは金銀財宝をはじめ大量の物資が奪われた。また、デリーの住民は他の地域へと移住した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。
ティムール軍の撤退までにデリーの住人100000が殺害され、そのほとんどがヒンドゥー教徒だったことから、ティムールの目的通りの結果となった。
同年12月末、ティムール軍は莫大な略奪品と多数の奴隷とともに引き上げた。ティムールのデリー占領と破壊、大量虐殺はトゥグルク朝の衰退を決定的なものとしたのみならず、王朝の権威そのものも失墜させた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。
デリーの住民は他の地域へと移住した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。
その後、マフムード・シャーはデリーに戻ったが、強力な臣下の言いなり何ならざるを得なかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。また、1401年にはマールワー・スルターン朝が、1407年にはグジャラート・スルターン朝がそれぞれトゥグルク朝から独立した。
1413年(あるいは1412年)、マフムードは死去し、トゥグルク朝は断絶した。王家の断絶により、王位は強力な臣下であるダウラト・ハーン・ローディーが後を継いだが、翌年ヒズル・ハーンがデリーを占領し、トゥグルク朝は名実ともに終焉を迎えた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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